昭和57年09月11日 朝の御理解



 御理解 第99節
 「無学で人が助けられぬということはない。学問があっても真がなければ、人は助からぬ。学問が身を食うとということがある。学問があっても難儀をしておる者がある。此方は無学でも、みなおかげを受けておる。」

 99節と言うのは、苦に苦が重なると言う事ですね。苦に苦が重なる様な所をもう一つの真、これに真が一つ添えられた時に、御理解100節にあります様に、めだためでたの若松様よ枝も栄える、葉も茂るというではないかという信心が、体得できた事になるのです。99節なるほど、苦に苦が重なると言うのですから、きつい辛い事でございましょうけれども、そのもう一つの真と言うのはどう言う事なんだろう。
 昨日の、お月次祭に皆さんにも聞いて頂きました様に、今日のまぁ御理解から致しますと、却って学問を身に着けて、学が身を食うと言う事がある、こりゃ学問と言う事はいわゆる危ないね。自分の腕に自信を持つとか、仕事ができるとか、と思うておる人でも例え学問がある人でも、一応神様にお供えしてしまう事、そしていよいよ障子一重がままならぬ人の身である事を、いわゆる吾無力であると言う事が。
 いや神様のおかげを頂かなければ、本当の意味においてこの学問も、この腕も本当の価値を発揮することはできない。というところをですね分らして頂く。そこから出て来る心が、私しは真じゃないだろうか、神様のおかげを頂かなければ、ここ一寸動けんのだと、言う自覚が出けるということが、私しは真だと思う。それが本当なんです。いいや私はこの足で歩いてきた、この自分の車でやってきたというてもです。いったひょうしに詰めて参りますと、神様の御かげを頂かなければできん。
 子の真が私しは頂けた時初めて、例え苦に苦が重なると言う様な、ならまぁ人間社会と言う様なものはそんなもんでしょうね。苦に苦が重なっておる様な世界だからこそ、この世は苦の世だ苦の世界というふうに、表現した方さえあるのです。ですからそこのところを私共が、いわゆる真をひとつこれに添えた時その真とは、とにかく神様の御かげを頂かなければ立ち行かん事が、ほんぜんとして分かったと言う心なんです。
 そこに立ちいかん時に99に真が一つ添えられる時に、初めてまぁ神の願いも成就、私し共の願いも成就と言う事になる。いわゆるめでためでたの若松様よと言う事である。これはほんとにね私は毎朝思うんですすけれども。ほんとに有り難い目覚ましのおかげを頂いて、有り難いと言う心の時じゃないとね、実際は拝めんです。拝まにゃいけん、便所に行ったら便所を拝まにゃいけん。洗面所に行ったら洗面所を拝まにゃいけん。いけんと言うとったんじゃ忘れる。ありゃ忘れとったと言う事になるのです。
 不思議に心が有り難いと言う時には、もう一切を拝んでおるときである。だからいよいよその有り難うならして頂くための手立てと言うか、教えを日々しかもうまずたゆまず稽古して行くうちにです、ほんとな真の事が分る、今日は私しゃ99といういうなら、苦に苦が重なる様な日々、ではやはり一生が苦労であり、この世は苦の世苦の世界である。これにいうならばなんでしょうかね、色々な御理解を頂きますと、素晴らしいタイミングが生まれて来て、しかも神の大恩が分るかと仰る。
 神の大恩分れば無事達者で子孫も続き、身代も出来、一年まさり代まさりのおかげを受ける事が出来る言う程しの、神の大恩と言う事が、99だけわかっとるじゃなくて100全部が分ったときだ、神の大恩が分るという。おかげを頂いて感じると言った様なもんじゃない。その神の大恩が分るから、神の大恩に報い祀ると言う信心も出来て来るのです。既に私共が持っておる、いうならばね、学問いわゆる自分の腕とかま、技術とでもいってもいいでしょう。
 それとても神様のおかげを頂かなければその技術や学問が生きないんだ。それを自分には腕がある、自分には学問があると思うておるところに、素晴らしいタイミングが生まれてこない、互い違いになる神のおかげを知らんから、神のおかげを知ると言う事は、そういう事だと思うんです。ただそれがなら実感として分る事の為に、私し共はね。一切が拝めれるためには先ずは私しは、有り難くなる手立てがあるならば、稽古の道があるならば、その有難うならせて頂く。
 もう何年前だったでしょうか、吉井の熊谷さんもう長年秘結で困っておられた。それこそある日突然ん、ほんとにお便所を心から拝むことが出来ていなかった。始めて拝む事に気が付いたら、ただ拝むだけじゃない、それこそ便所には花の一輪もいつも絶やしちゃならない。と言う様な心までが出来てきた。以来おかげでおかげを頂いておられるという。こりゃもう何年か前の話でしたけれどね。
 結局日頃、鍛えに鍛えて有り難くなる稽古をさせて頂いて、ふとある日なら便所でも拝まずにはおれないと言う心がうまれて来たのです。日頃なら有り難くなる稽古を、本気でしおかなければ何時までも99であります。是に一つ真を添えると言う事は。私共がほんとに神様の御かげを頂かなければ立ち行かんと。分った時初めて、天地の大恩がわかるときである。これからこれまでは自分の力、これから先が、神さから頂くおかげと言った様なものではなくて。
 例え身に着けておる、腕であろうが技術であろうが、学問であろうが神様の御かげを頂かなければ、その腕も各門も生きてこないんだと言う、まぁ悟りが出来た時ね。そこから99に真の一つが添えられた時であり、いわゆる御理解100節じゃないけれども、めでためでたと言った様なおかげが頂ける時でもあると思います。聞いて分るのじゃなくて、これはもうほんとに日々有り難うなる稽古をさしてもらって、ある日突然ほんぜんとして、拝まずにはおれない心が生まれた時、それが私しは真だと思うですね。
   どうぞ。